続々手帳ってなに?
昨日、一昨日と手帳について僕の考えの一端を披露した。しかし、昨日の続きだが理想と現実とはいつも一致するとは思えない。
手帳を「時間」という誰もが「管理」出来ないことを「管理する」という無謀な企てを辞めて、24時間をどう自分の生き方に使うか、ということを考えて手帳を使う、ということを僕は言った。
昨日、一昨日と手帳について僕の考えの一端を披露した。しかし、昨日の続きだが理想と現実とはいつも一致するとは思えない。
手帳を「時間」という誰もが「管理」出来ないことを「管理する」という無謀な企てを辞めて、24時間をどう自分の生き方に使うか、ということを考えて手帳を使う、ということを僕は言った。
手帳を使ってて何が気持ちが良いかというと、僕の場合はこれまでの僕が生きてきたことを客観的に、あるいは他人事のように見られることが面白い。
僕は日記もつけている(僕の日記については後日、ご報告する)。でも、日記は不平、不満、喜び、感激など日々の感情が主になってしまうことが多い。僕はその他に「何を食べ、何を飲んだか」も書いている。つまり全くのプライベートの記録(といえるかどうか分からないが)であって、今の世界のうねりの中で何をしてきたか、何をしなかったかということが「手帳」を見ることによって分かる。そして、その上に立って今後どう生きていけばいいかを考える。
毎年のことだが、今頃になると来年の手帳をどうしようかと悩む。もっともその「悩み」は嫌ではないのだが。
僕のほしい手帳は、
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羽田から新千歳空港に10時半ごろついて、12時過ぎに今夜泊まるホテルのバスで夕張に向かう。その間、毎日新聞の記者が夕張の現状、その歴史などかなり詳しく、しかも要点だけきわめて明快に解説・説明してくれる。現役記者でこんなに地元のことを知っている記者に会うのは久しぶりだ。まだまだ若い記者の仕事がいっぱいあるとつくずく思う。
それにつけても僕の地元に対する知識のなさが悲しい。
夕張は人がいない。
つくづく日本という「国」は国民のことをなんともおもっていない「国」だと改めて思った。それを感じたのは「国」がはじめた「後期高齢者医療制度」だ。
5月9日に日本ジャーナリスト会議(JCJ)の第8回ミニシンポ「後期高齢者医療制度と私たちのくらし」の話を聞いての感想だ。講師は全日本民主医療機関連合会理事の相野谷安孝さん。実態に即した話なのでよくわかる。
北京オリンピックの聖火も日本をすぎ、韓国も通って北朝鮮に入った。
僕が不思議というかおかしいと思うのはフランスを本部とする「国境なき記者団」の行動だ。
採火の時は手錠の「五輪」旗(しかも黒)を掲げて阻止行動に出た。
僕はこれまで「国境なき記者団」を尊敬していたし、その活動について賞賛していた。しかし今回の事でその思いは「幻想」にかわり、失望した。
記者は当事者になっては行けない、というのが鉄則である。別に「公平だ」とか「中立であるべきだ」といった迷いごとをいうつもりはない。
記者は事実を客観的に観察し、何がよくて何が悪いのかを伝える事が本務と信じている。それ故、今回の「国境なき記者団」の行動は客観的に「伝える」という事でなく「国境なき記者団」自体が行動して取材対象になってしまったことが問題なのだ。
確かに中国はチベットを含めウイグル自治区や内モンゴル自治区での迫害があるという。いわゆる漢民族の支配であり、それ以外の民族は漢民族に従うのが当然、といった風潮があるのだろう。
中国を批判するのは自由だし、その意見を発表するのも自由であろう。それらを含めて、多様な意見や考えを誰でも自由に発表する事が民主主義の基本である。
だからといって「記者」が直接行動に出るのはいかがなものだろうか。
会社を30分早めに出てBlitz Brassの第4回定期演奏会に行く。高校生の定期演奏会や、社会人の吹奏楽は何度か聴いたことがあるが、ほぼプロの演奏家によるブラスは初めてだ。心はワクワク。
30分前に会場に着くと長蛇の列。しかも女子高校生が多い。サラリーマンはちらほら。あとは中年のご夫婦とおぼしき人達。
会場のホールは8割がた席は埋まっている。
ギリシャで採火された北京オリンピックの聖火リレーが、各国・各地で抗議行動に出会っている。直近に中国政府のチベットに対する弾圧があったことによるが、僕は基本的なスタンスとして政治とスポーツははっきりと分けて考え、行動すべきだと考えている。
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